2025.10. 22 更新
🎼 日本におけるギター受容史 [戦後復興期]
1945年-1955年
◆ 年 表
| 年 | 出来事・背景 | 関連人物 | 補足 |
| 昭和20年秋(1945) | 終戦直後、小原安正・寿楽光雄による二重奏会開催 | ソル・アルベニス中心。聴衆30名ほどの惨憺たる状況 | |
| 昭和20年12月 | 西田二郎リサイタル(大阪) | 社会不安の中で開催。東京と同様に困難な状況 | |
| 昭和21年(1946) | 少数の独奏会・研究会が再開 | 多くのギタリストは沈黙。復興の兆しはまだ弱い | |
| 昭和21年(1946) | 中野二郎『ギター・マンドリン界』複刊 | 戦前からの継続誌。復興の一助となる | |
| 昭和22年2月 | MVTR放送でセゴビア演奏が流れ、健在を確認 | 戦火を避けて米国滞在中との情報 | |
| 昭和22年(1947) | 小原安正『ギタルラ』創刊 | 初のギター専門市販誌。全国のギタリストとの連絡が再開 | |
| 昭和23年(1948) | 小原安正が名古屋など各地で演奏旅行 | 全国行脚コンサート(名古屋・九州・京阪神・ほか) | 各地のギタリストに刺激を与え、演奏活動が再始動 |
| 同年6月 | 大阪市で教育用楽器としてギター導入運動の決議 | 中野二郎、長野努、西田二郎、上田耕司ら9名が参加 | |
| 同年秋 | ギタルラ社が教育用ギター(4分の3サイズ)を初製作 | 学校教育への導入を視野に入れた製品 | |
| 同年秋 | 小原安正3度目の演奏旅行。溝淵浩五郎・寿楽光雄も独奏会開催 | 活動が全国的に広がり始める | |
| 昭和24年1月 | 上田耕司『ギタリスト』創刊 | 新たなギター専門誌の誕生 | |
| 昭和24年3月 | 小原安正4度目の演奏旅行 | 大阪では近藤敏明が清新なプログラムで注目 | |
| 昭和24年5月 | 第1回全国ギターコンクール開催(ギタルラ社主催) | 優勝:阿部保夫。課題曲:ソル作品22第3楽章メヌエット。自由曲:マラッツ・タルレガ | |
| 昭和24年5月 | 小中学校音楽教育に器楽合奏(ギター含む)導入決定 | 昭和26年秋から実施。音楽教育の方向性に影響 | |
| 同年5月23日 | 中村登世子演奏会でジュリアーニ協奏曲が東邦で初演 | 大きな反響を呼ぶ | |
| 昭和24年頃 | 楽譜出版が再開。新作も登場し愛好家を喜ばせる | 占領下の著作権制限が緩和され、出版活動が活性化 | |
| 同時期 | ガット弦の輪入・国産化が進む | 戦中は代用品(テグス・絹・プラスチック)で対応 | |
| 同時期 | スチール弦は戦前から国産品があり復興が早かった | 弦材供給の安定化 | |
| 昭和24年11月 | 第1回西日本ギターコンクール | 上田耕司 | 名古屋以西の西日本全域を対象とした。 |
| 昭和25年[8月26日] (1950) |
「現代日本ギター連盟」設立<小原安正> | 小原安正 | 東京・関西・名古屋・福岡の連盟発足 |
| 昭和25年6月 [1950] |
朝鮮戦争 [1950-1953] | 一流の音楽家が続々と来日し、音楽文化が大衆に紹介・啓蒙 | 高度経済成長期の時代に突入 |
| 昭和25年1月(1952年) [1950] |
「ギターの友」が出版される | [主幹]玖島隆明 | ギター技法・音楽理論・演奏論など |
| 昭和27年5月 [1952] |
エスパニタ・コルテス 来日 [スペイン舞踊] | フランシスコ・ヒル[ギタリスト] | 戦後初めての外人ギタリスト |
| 昭和28年5月 [1953] |
タルレガ生誕百年記念演奏会 | 永田哲夫・奥田紘正・亀山寿天子・小原安正・小船照子・溝淵浩五郎 | YWCAホール |
| 昭和29年3月 [1954] |
マリア・ルイサ・アニード初来日 | ||
| 昭和29年7月 [1954] |
キジアーナ音楽アカデミーへ留学[イタリア] | 阿部保夫の留学 小原安正の留学 | セゴヴィアのレッスンを日本人が受けられる道を開く。(高橋 功) |
[参照]
マンドリン・ギター及其オーケストラ[主幹]:武井守成
マンドリン・ギター片影 [主幹]:武井守成
マンドリンとギター [主幹]武井守成
マンドリンギター研究 [主幹]武井守成
ARMONIA [主幹]澤口忠左衛門
『ギターの習い方』小林欽一著 佳生書房